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影響(民衆の暴動事件等)

1918年に第一次世界大戦が終わり、荒廃したヨーロッパに変わって日本の工業製品輸出が伸びた戦争特需による好景気も、ヨーロッパ経済が急速に回復すると過ぎ去っており、景気に陰りが見えてきた日本経済に甚大な打撃を与えた。

折りしも加藤友三郎内閣総理大臣が8月24日(震災発生8日前)に急逝していたため「首相不在」という異常事態下での災害であった。当時東京にあった新聞社は地震発生により活字ケースが倒れて活字が散乱した事で印刷機能が崩壊し、更に大火によって東京日日新聞・報知新聞・都新聞を除く13社は焼失してしまい、最も早く復旧した東京日日新聞が9月5日付夕刊を発行するまで報道機能は麻痺した。通信・交通手段の途絶も加わって関東以外の地域では伝聞情報や新聞記者・ジャーナリストの現地取材による情報収集に頼らざるを得なくなり(ラジオ放送の実用化はこの直後、大正末期のことである ラジオ#日本初のラジオ放送)、新聞紙上では「東京(関東)全域が壊滅・水没」・「津波、赤城山麓にまで達する」・「政府首脳の全滅」・「伊豆諸島の大噴火による消滅」などと言った噂やデマが取り上げられた。その中には朝鮮人が「暴徒化[3]した」「井戸に毒を入れ、また放火して回っている」というものもあった。

このような状況のもと、大災害時に情報が遮断された中で朝鮮人の「井戸に毒を入れ、また放火して回っている」という噂を信じる日本人は多かった。

時の警視総監・赤池濃は「警察のみならず国家の全力を挙て、治安を維持」するために、「衛戌総督に出兵を要求すると同時に、警保局長に切言して」内務大臣・水野錬太郎に「戒厳令の発布を建言」した。これを受けて内務省警保局(局長後藤文夫)が各地方長官に向けて警報を打電した。その内容は次のとおりである。「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を加え、朝鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし」。また「行政戒厳」の形で戒厳令を発令した。

更には送信所自身からも“襲撃されるかもしれない、警護求む”“送信所周辺に不穏な動き、大至急救援を”などと。更に警視庁からも戒厳司令部宛「鮮人中不逞の挙について放火その他凶暴なる行為に出(いず)る者ありて、現に淀橋・大塚等に於て検挙したる向きあり。この際これら鮮人に対する取締りを厳にして警戒上違算無きを期せられたし」と“朝鮮人による火薬庫放火計画”なるものが伝えられた(出典は全て『現代史資料 第6巻-関東大震災と朝鮮人』みすず書房)。

実際、当時の混乱の中、大衆の多くが“暴徒と化した朝鮮人”を恐れ、民間の自警団との衝突も発生した。そのため、朝鮮人や中国人なども含めた死者が出た。一説によると、 朝鮮語では語頭に濁音が来ないことから、道行く人に「十五円五十銭」や「ガギグゲゴ」などを言わせ、うまく言えないと朝鮮人として暴行(俳優・千田是也が暴行されたといわれる)したという。また、福田村事件のように、方言を話す地方出身の日本内地人が殺害されたケースもある。聾唖者(聴覚障害者)も、多くが殺された。殺害の犠牲者は複数の記録、報告書などから研究者の間で議論が分かれており、当時の政府(司法省)の調査では233人、吉野作造の調査では2711人、最も犠牲者を多く見積もる立場からは6415人(「独立新聞」社長の金承学の調査)と幅が見られる。
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横浜市の鶴見警察署長・大川常吉は、保護下にある朝鮮人等300人の奪取を防ぐために、1000人の群衆に対峙して「朝鮮人を諸君には絶対に渡さん。この大川を殺してから連れて行け。そのかわり諸君らと命の続く限り戦う」と群衆を追い返した。さらに「毒を入れたという井戸水を持ってこい。その井戸水を飲んでみせよう」と言って一升ビンの水を飲み干したとされる。
また、日本軍も多くの朝鮮人を保護した。 [4]

内務省警保局調査では、朝鮮人死亡231人・重軽傷43名、中国人3人、朝鮮人と誤解され殺害された日本人59名、重軽傷43名であった。また警察は、朝鮮人・中国人などを襲撃した日本人を逮捕している。殺人・殺人未遂・傷害致死・傷害の4つの罪名で起訴された日本人は362名に及んだ。しかし、そのほとんどが執行猶予となり、実刑となった者も皇太子裕仁親王(当時は摂政)結婚の恩赦で釈放されたという。一方、朝鮮人による犯罪の認知件数は、殺人2名、放火3件、強盗6件、強姦3件であった(暗数は不明)。“自警団”が本格的に取り締まられるようになるのは10月、解散が命じられるようになるのは11月のことである。

陸軍や憲兵隊の中には、この混乱に乗じて社会主義や自由主義の指導者を一掃しようとする動きがあり、大杉栄・伊藤野枝・大杉の6歳の甥橘宗一らが殺された甘粕事件(大杉事件)、労働運動の指導者であった平澤計七など13人が亀戸警察署で軍に銃殺され平澤は首を切り落とされた亀戸事件、在日中国人指導者の王希天などの殺害事件が起きた。

またその被害の大きさから、一時は遷都も検討されたという。遷都の候補地には姫路や京城などが挙げられた。

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2009年06月06日 12:08に投稿されたエントリーのページです。

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